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【編集部ニュース】『鳥羽伏見の戦いの勃発地』を歩いてみました‼ @京ちゃんの伏見ヒストリー日記  

まいぷれ京都市伏見区編集部

まいぷれ伏見区編集スタッフ
京ちゃんです

体力増進を兼ねて、『鳥羽伏見の戦いが勃発した』周辺のフィールドワークに出かけてみました。
丁度、名神高速道路の南インターチェンジから国道1号線を南下したところの「城南宮」「鳥羽離宮南殿跡」「小枝橋付近」です。人通りも少なく、ひっそりとしていました。

鳥羽伏見の戦いは、慶応4年(明治元年)1月3日の夕方、幕府軍と薩長軍が鳥羽の小枝橋から城南宮付近で激突し『鳥羽伏見の戦い」が始まりました。この戦は、1年半におよぶ「戊辰戦争」の幕開けとなったのです。

両軍が激突をしたのは、淀・伏見方面から鳥羽街道を北上して「京都入りを目指す幕府軍」「薩摩藩や長州藩を中心に構成された新政府軍」が幕府軍の北上を阻止するため、新政府軍の発砲で戦いが始まったのです。
「幕府軍」の戦力は約15,000人、相対する「新政府軍」の戦力は約5,000人でした。

人員だけを見ると幕府軍が圧倒的に有利でしたが、戦闘が狭い場所で行われることが多く、幕府軍は効率的に兵の展開をすることができませんでした。
さらに、薩摩藩が効果的に大砲を使用したことや、それまで中立的な立場だった土佐藩が新政府軍に加わったことで、徐々に幕府軍は追い詰められていきました。

そして、鳥羽伏見の戦いの趨勢を決定づけたのが「錦の御旗(にしきのみはた)」です。
「朝廷」より新政府軍に錦の御旗が与えられたことで、新政府軍は「官軍」・幕府軍は「賊軍」と、それぞれの立場がより鮮明になりました。
当時の江戸幕府の将軍である徳川慶喜は、元々は水戸藩主徳川斉昭の子供です。
水戸徳川家は、徳川御三家の一つで勤王に厚い家とされてきました。
水戸家に育った徳川慶喜は、自ら朝廷に逆らって「賊軍」になることは耐えられませんでした。
戦況は幕府軍に不利でしたが、幕府最高権力者将軍である徳川慶喜は、戦意喪失となり形勢は一気に新政府軍に傾きました。

慶応4年(明治元年)1月6日に『鳥羽伏見の戦い』は「僅か四日間」で終結したのです。



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