伏見人
一代で天下人まで上り詰め、伏見の街の基礎を築いた太閤 秀吉さん☆
豊国神社の秀吉像(京都市東山区)
本日の伏見人は、伏見の街の基礎を築き、そして一代で天下人まで上り詰めた日本一の出世男、太閤 秀吉さんこと、豊臣秀吉さんです。本日は、ご出身地の愛知県名古屋市からお越しいただき、取材をさせていただくことになりました。
京都や伏見の人は、家康さんよりも、秀吉さんビイキの人が多いですね。しかし、秀吉さんの伏見在住歴は、なんと4年。この間、出張などの期間を差し引くと、更に短いはずです。
そんな秀吉さんに、いろんなお話を伺いました。
現在は、黄泉の世界で暮らしていますが、特に忙しい訳でもなく、優雅にしていますよ。元上司の織田信長様や家康殿、他にも様々な場面で関わった人たちと、煎茶や花見を楽しんだり、活躍した時代の昔話に花をさかせています。私は、卑賎の身分から天下人になった、世界でも稀な歴史上の人物らしいですね。そりゃ、若いころからガムシャラに働いてきましたから。
功績という意味では、ほんといろいろありますよ。伏見に関連したものとしては、はやり「伏見城の建設」でしょうね。
ここ伏見の立地は、山や河川に囲まれ、またかつて巨椋池もあったこともあり軍事的な意味で、天然の要塞でした。また、京都と大阪を結ぶ重要な拠点として、経済も大きく発展する要素を兼ね備えた場所でした。後に、ここ伏見城で、徳川家3代にわたり征夷大将軍の宣言を受けたり、東海道57次の最大の宿場町としても発展しました。
※東海道57次
東海道53次といえば、江戸の日本橋から京都の三条大橋までをいいます。しかし、東海道は三条では終わらず、1619年に更に大阪へと伸ばされました。伏見、淀、枚方、守口の4つの宿場町が加わり、「東海道57次」となりました。

千成ひょうたん
私の馬印であった「千成ひょうたん」を伏見に、再登場させて欲しいです!
かつて存在した、伏見桃山城キャッスルランドの入場口に特大の「千成ひょうたん」が飾ってありました。ところが廃園と同時に、この「千成ひょうたん」も撤去されています。
ひょうたんは、かつての合戦で、私自身の目印のため腰からぶら下げて戦っていました。後に、信長様から武功が認められ、「馬印」にするのを認められました。戦に勝たびに、そのひょうたんの数を増やしていき、いつぞや「千成ひょうたん」と言われるようになりました。
そういう意味で、非常におめでたいものなんです。
ぜいたくは言いません。
ぜひぜひ、特大の金ピカの千成ひょうたんを、伏見のモニュメントにして欲しいです。
※馬印
馬印(うまじるし)は、戦国時代の戦場において、武将が自分の所在を明示するため馬側や本陣で長柄の先に付けた印のこと。
※千成ひょうたん
ウリ科の果菜ユウガオの栽培品種。ヒョウタンに近いが果実は長さ三センチメートルぐらいで小さく、多数できる。未熟果を煮たり奈良漬にしたりして食べる。
豊国神社にて
豊国神社にて
伏見桃山城
もちろん、私の築いた「伏見城」を模して建設された「伏見桃山城」ですね。
現在のものは、鉄筋コンクリート造で、耐震上の問題で登城が出来なくなっています。しかし、遠くから見るのもよし、近くから見るのもよしと、伏見のシンボル的存在です。歴史上の「伏見城」は、これまで3回建設されました。更に、この伏見桃山城を加えると、4回ということになりますね。
ちなみに、歴史上の「伏見城」がどのような歴史をたどってきたのか知らない人が多いので、老婆心ながら説明をしておきます。
~ 歴史の嫌いな方は読み飛ばしてください ~
もともとは、1592年に自分の隠居所として建設したのが始まりです。その当時はあくまでも「隠居屋敷」と考えていました。そこに入居したのは2年後の1594年です。
しかし、明との講和交渉のため、その使節を受入れる必要があったため、見栄えをよくするため隠居屋敷を大規模に改修しました。この改修時に、伏見を交通の要所とすべく、宇治川や巨椋池周辺の土木工事を実施し、伏見港や、いわゆる太閤堤などを造りました。また、この時に伏見城の支城、向島城も築城しています。この時に建設した伏見城は「指月伏見城」と呼ばれています。現在の伏見区桃山町泰長老あたりですね。
ちなみに、伏見の城下町も整備され、多くの大名屋敷も建設されました。その大名屋敷跡が、現在でも町名として残っています。
その後、更に建設は続き、2年後の1596年に完成しました。しかし、その直後、慶長伏見地震によって、残念ながら倒壊してしまいました。
しかし、これでへこたれる訳にはいきません。すぐさま、指月から北東約1㎞の木幡山(桃山丘陵)に新たな伏見城の建設を開始しました(1597年に完成)。この時のものが、「木幡山伏見城」と呼ばれています。
しかし、その1年後の1598年に、私は伏見城内で臨終をむかえました。
実は、その後の伏見城も、関ヶ原の戦いの際に落城してしまいました。しかし、次は徳川家康により1602年頃に再建し、徳川政権としての伏見城が完成しました。その後、役割を終えた伏見城は、残念ながら1619年に廃城となり、すべて取り壊されてしまいました。
その後、跡地に桃木を植えたから、「桃山」と言われるようになったと。

★佐賀県立名護屋城博物館所蔵★
御香宮神社の拝殿
我が家の名残を見ていただける『御香宮神社』ですね。
名残とは、豊臣家の家紋(五七の桐)が、拝殿に飾られているからです。
豊臣家が滅びて、徳川の世に遷り変ってから、我が家の足跡はことごとく破壊されました。もちろん、豊臣家の「家紋」も使用禁止となりました。
しかし、御香宮神社だけは、その拝殿に豊臣家の家紋(五七の桐)を飾ることが許されていました。ちなみに、この拝殿は、紀州藩の祖 徳川頼宣の寄進と伝わっており、現在は京都府の指定文化財に登録されています。徳川頼宣は、1602年に、ここ伏見城で生まれ約6年程、住んでいたと言われています。
拝殿の家紋は、他にも、菊(皇室)、葵(徳川家)の家紋も飾られています。このように、敵対した徳川家と豊臣家の家紋双方を、一緒に飾っている社は、とても珍しいことです。また、境内の末社に、豊臣秀吉を祀る「豊国社」と、徳川家康を祀る「東照宮」が隣接しているのも、特徴です。
機会があれば、ぜひ双眼鏡で見てください!
御香宮神社の拝殿(拡大)
豊国神社にて
すばり景気回復ですね!
ここ最近の物価高で、最低賃金が上がってきていますが、その前に経済の立て直しをしないと、とんでもないことになると思っています。景気が回復し、結果、お金が回るようになれば、企業も潤い、そして賃金も増える。これが正常な経済の循環だと思います。
さて、今年は、巳(蛇)年。
私の予想では、景気は回復します!!
《根拠(1)》
干支の格言「辰巳天井」とうのがあります。これは、株式市場の用語ですが、辰年と巳年は好調な相場が期待され、株価が天井をつけやすいことを意味する相場格言です。直近の巳年である2013年には、日経平均株価が大幅な上昇を記録しているので、とても期待できますよ。
《根拠(2)》
昨年11月の九州場所で、大関 琴桜が優勝しました。琴桜の祖父は、第53代横綱の琴櫻(12代佐渡ヶ嶽親方)ですね。この横綱・琴櫻が初優勝したのは、1968年7月の名古屋場所です。この当時、いざなぎ景気の真っただ中! いわゆる「新・3種の神器(車・エアコン・カラーテレビ)」などの消費が大幅に伸びた時代です。そういう意味で、大関 琴桜の初優勝は、とてもゲンがいい出来事です。
さてさて、今後の目標というか、あれですが。
絶対に景気が良くなって欲しい!! 希望的な願望に近い目標です。

豊臣秀吉像(大阪城)

現代風の「豆味噌の握り飯」
「豆味噌の握り飯」です!
これはどんな食べ物かと言いますと、、、
《作り方》
まずご飯を炊き、少し冷ましてから手に取ります。その後、豆味噌(八丁味噌)を少量ずつのせてご飯に混ぜ込むか、具材として中に包み込んで握り上げます。豆味噌の豊かな味わいが、ご飯の甘さと相まって美味しい一品になります。
この握り飯は、私の勝負メシです。
米の糖質、そしてビタミンB1も豊富ですので、戦場ではもちろん、忙しい皆さんにもピッタリの栄養食です。
てか、最後というか、もう私はこの世にはいませんので、黄泉の世界から現世への旅たちの「最後の晩餐」で、候補を上げました。

秀吉の鎧
「一の谷馬藺後立付兜」(いちのたにばりんうしろだてつきかぶと)
【編集コメント】
ここ伏見に豊臣秀吉の銅像がないため、秀吉さんの取材のために京都市東山区にある「豊国神社」まで出向きました。この神社の主祭神は、もちろん豊臣秀吉公です。
豊臣家崩壊の引き金となった釣鐘で有名な「方広寺」も隣接しています。以下の写真の白い部分が、有名な「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれている箇所です。また、秀吉が眠っている「豊国廟」も、歩いて数分のところにあります。
観光名所 三十三間堂にも近いため多くの外国人で溢れていますが、ここ「豊国神社」界隈は人もまばらで、日本人しか参拝されていませんでした。
京都の人は、秀吉が大好きと言われています。ここ伏見も、もちろん秀吉ビイキの人が多いと思います。しかし、徳川政権時代は、政敵であった秀吉の功績を語ることや、飾ることはタブーだったと思われます。そのため、徳川家康の手によって、豊国神社や豊国廟は破却されています。
しかし、後の明治時代に、これらは再建されたものの、ここ京都や伏見では、隠れキリシタンのように、脈々と豊臣秀吉のことを口伝されてきたのでしょう。
(取材 まいぷれ編集長)
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。